納豆は悪くない。
納豆を見て、ご飯が何杯も食べれる。
と喜ぶ人もいれば、
誰かが近くで食べてるだけで気持ち悪くなる。
という人もいる。
あの日、あの人が僕にしたこと。
あの日、あの人があなたにしたこと。
いつか、僕があなたにしたこと。
いつか、あなたが僕にしたこと。
それもきっと、納豆みたいなもので、
それがいい、という人もいれば、
めちゃくそ嫌悪感を抱く人もいる。
気づきだ!といって
ポジティブにとらえる人もいれば、
なにすんねん、といって怒り狂う人もいる。
納豆はいつまで経っても納豆のままで、
納豆はどこまで行っても納豆であること、
それしかしていないのに。
目の前に現れた現実に、誰かがした行為に、
怒ったり、悲しんだり、傷ついてみたり。
そんなことはきっと茶番で、
相手は言いたいこと、思ったこと、
したいことを、したいようにしただけだ。
納豆が納豆を全うしているように、
その人もきっと、その人を全うしている。
なら、僕らが抱いてしまった、
その怒りや悲しみは、いったいどこからきたのか?
実はその感情はもともと、自分の中にあったのだ。
僕らががっかりしたり、傷ついたとき、
そこにはいつも、「やっぱり」と「どうせ」がつく。
やっぱり自分は報われない。
どうせ自分は愛されていない。
やっぱりあの人は振り向いてくれない。
どうせ自分は仲間外れだ。
納豆を初めて見た人は
「やっぱり」なんて思わない。
赤ん坊が「やっぱり」立てない
と思ったら僕らの今はない。
納豆はヤなやつだ。
「どうせ」無理なんだ。
「やっぱり」ふさわしくないんだ。
という「前提」が、自分の中にあるから
「どうせ」がつくし、「やっぱり」もつく。
そして、その「どうせ」と「やっぱり」が
現実となって現れるだけだ。
そう。
いつだって、納豆は悪くないのだ。
いつだって、納豆は納豆のままなのだ。
それを変えるには、
一方通行の考え方や見方を変えるしかない。
自分の中にある「前提」を変えるしかない。
「やっぱり」愛されているし、
「やっぱり」報われるし、
「やっぱり」うまくいくし、
「やっぱり」私はイケてる。
あの日、あの人が僕にしたこと、言ったこと。
僕は感情的になって反応してしまったけど、
同じことされてもまったくイライラしない人、
悲しまない人、気にすらとめない人もいるわけで。
地雷を踏んだのが「たまたま」その人だったのだ。
むしろ、「わざわざ」その地雷を踏んで僕に気づかせてくれてたのだ。
だからその「納豆さん」は悪くない。
納豆は「やっぱり」おいしい。
その思い込みが、納豆のおいしさを強化していく。
僕は納豆が大好きです。
という、小学生の作文のような終わり方。
久々の更新。さてと。//
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