君がいない、だけ。
風車がまわる柱の間を抜けて、すこし湿った潮の香りが鼻に届く。
自宅からランニングで片道5kmのところのベンチに腰掛けて、
自販機で買ったスポーツドリンクで、身体に水分を与えてやる。
海風は容赦なく自販機の身体に吹きつけて、
赤いカラーリングをところどころ剥がしてサビを出現させる。
自販機はこんな風の強い場所で、いったい何を考えているのだろう?
ベンチに座ってボトルを口に傾けつつ、僕はそんなことを思う。
空を見上げた視界の端に風車の羽が映りこんで、
僕はそのまま顔を上げて、回転する羽を眺めながら鼻をすする。
この風はどこからやってきて、どこに向かうのだろうか?
この風は誰かの笑い声や泣き声や怒鳴り声を含んでいるのだろうか?
僕は風に耳を澄ましてみるけれど、誰の声もそこには聞き取れない。
この風は誰かの汗や涙や植物から蒸散された水分を含んでいるのだろうか?
今僕が汗に紛れて流している涙も、この風に含まれて世界中を巡るのだろうか?
水蒸気はやがて雨になり大地を濡らし、小川は河川になって海に注ぐ。
このスポーツ・ドリンクの水分は、いったいどこからから来たのだろう。
今頬を伝う涙は、いったいどこに行くのだろう。
それはもしかしたら、赤ん坊のミルクになるかもしれないし、
名もなき森の養分になるかもしれない。
風で冷えてきたランニング・ウェアで僕は頬を拭う。
もう、君がいない。ただ、それだけ。
僕のもとから去っていった君は、これからいったいどこを巡るのだろう。
ボトルをくずかごに入れて、僕は来た道を戻ることにする。
往路の5kmと復路の5kmでは、景色は違って見えるのだろうか?
君と歩いた道や君と見た景色を、僕ひとりで見たら違って映るのだろうか?
それはまだ、分からない。分かるはずもない。
僕は軽くストレッチをして、地面の感触を確かめるように復路を進む。
行く道、来た道、帰り道。
潮風に君の声が含まれている気がした。
(おわり)
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