「偶然」の話
週末に部屋の本棚の整理をしていて、数年前に書いたノートを見つけました。
(そのときの僕は自己啓発に陶酔する、頭でっかちの人間だったように思います。)
「ノートに書いたことは実現する」という言葉を信じて疑わなかった当時の僕は将来の夢や目標をそのノートに書きなぐっていたんです。
そこに書いた目標の数々。結果はどうだったと思います?
叶っているものと、叶っていないものが半々くらい。笑
なんとも中途半端な、なんとも説得力のない目標達成術ですね。
叶ったものと叶っていないものの違いはなんだったんだろう?
その違いについて考えてみると、それは「エネルギーのかけ方」なのかな、と思います。
「エネルギーや情熱をかけたものが叶いやすいの?」と言ったらそうではなくて、むしろ、逆だと思います。
必死になって「いない」ことの方が意外と叶っていたりしたんです。
(必死にならないって、別に努力をしないってことではないですよ。)
人ってなぜ必死になるんでしょう。
もしかしたらそれは「叶わないかもしれない」ってこと、心のどこかで予感してしまうからかもしれません。
たとえば、将来、あの人と付き合って結婚することが分かっていたとしたら、
たとえば、将来、リーダーになってプロジェクトを回すことが分かっていたら、
たとえば、将来、今よりも豊かになって、自由な生活ができるってことが分かっていたら、
たとえば、将来、自分がイケてるアプリを開発できると分かっていたら、、、。
そんなとき、僕らはどんな行動をとるんでしょうか?
何もせずに怠けるのか?意外とそんなことはないと思います。
楽しく努力をする。もしくは、苦労もあまり苦労とは思わない。
そんな行動をとって、最終的にはその目的地に辿り着くんだと思います。
こんな風に、未来が分かっている人、予感できている人は「必死」にはならないのかもしれません。
でもこれはきっと「後付けの理由」です。
今思えば、叶った夢や目標は「そうなるようにできていた」んだと思います。
逆に今まで遭遇したいくつかの苦難も「そうなるようにできていた」と思っています。
(「人生必然論」を語りたいわけではなく、「そういうものかもしれない」という僕の経験則による推測です。)
人は、いるべき場所、なるべき姿、会うべき人、そういった出来事や人に自然にたどり着くようにできているのかもしれません。
とはいえ、僕も20代の頃は死ぬほど迷ってつまづいて、さまよっていたので、今そういう渦中にある人の気持ちがよく分かるつもりです。
そんなきつい時期、迷いの時期にいる人に「すべてなるようになりますよ」なんて言っても、そんな言葉より明確な答えが欲しいわけで、、。
でも、思うんです。
あのとき、あの会社に受かっていなかったら、逆に間違って地元のあの会社に受かっていたりしたら、、。
動物に興味を持って大学行って、学生時代に車が好きになって、車関連の商社に就職して営業をやって、そこで英語を勉強して転職して塾講師をやっていなかったら、きっとカナダにも行っていなかったし、そこでの出会いもなかった。
帰国してから精神的に落ち込んでなかったら自己啓発に救いを求めていなかったし、上京もしていなかった。そして、きっとこの会社にもたどり着いていません。
後ろを振り返ってみると、もはや必然としか思えないような連続のつながりの結果が今の僕です。
これを朝のベッドで読んでいる人も、仕事に向かう電車の中で読んでいる人も、帰りの電車で読んでいる人も、
自宅で読んでいる人も、誰かに転送してもらっている人も、なんだかんだ人生はきっとなるようになるんで、大丈夫です。
そんな必然的な偶然の中で出会えたんだから、「やれることを精一杯いっしょにやろうぜ」って思うんです。
せっかくですから。ね?
今週もよろしくお願いします。
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