なにもないところから。
なにかを書きはじめるとき、いつでもそこは真っ白です。それは原稿用紙でも、ワードプロセッサでもMacbookでも変わることがありません。
その内容が日記であろうが、ブログであろうが、将来なにかしらの文学賞を受賞する作品であろうが、やはりなにもないところから文章を起ち上げていくことは同じでしょう。
それはある意味、生まれたての子供が大人になっていく過程とも言えるかもしれません。
成長するにつれ、いろいろな経験をして、雑多なものから有用なものまであらゆる知識を獲得していく。
ときには情熱的なことを経験するかもしれませんし、壮絶で悲痛な経験をするかもしれません。
ときどき、暇つぶしをしたり、無為に時間を過ごしたりもすることもあるでしょう。
そうやって文章をつらつら進めていくと、僕たちは必ず誰かに出会います。それはパートナーとなる人かもしれなし、生涯の友かもしれないし、自分のなかにいた別の自分かもしれません。
いずれにしても、文章を起ち上げないことにはそういった人や経験とは出会うこともないわけです。
80年代にハルキ君が書いたエッセイのなかに「文章の書き方」というのを見つけました。
氏いわく「どんなふうに書くのか」は最終的に「どんなふうに生きるのか」ということとだいたい同じになるようです。
とにかく生きること。それなしにはしっかりとした文章は書けないというのが彼の持論みたいですが、それもなんとなんくわかる気もします。
なにかに迷ったとき、僕は目の前のことを「きちんとやる」ことを意識することがあります。
ただ歯を磨くのではなく、「きちんと」歯を磨く。
ただ洗濯物を干すのではなく、「きちんと」洗濯物を干す。
ただアイロンをかけるのではなく、「きちんと」アイロンをかける。
掃除をする。身体を洗う。髭を剃る。ご飯を食べる。本を読む。手紙を書く。運動をする。
なんだか「きちきち男」みたいで嫌ですが、そうやってなにかを「ていねいに」やっていると、いろいろな歯車が噛み合ってくるように思います。
べつにいつもきちんきちんとする必要はないんですが、なにか迷ったり、うまく進めないなぁというときには、そういうことがあなたを助けてくれるかもしれません。
僕らは何事においても実際的で現実的な世界で生きているのですから。
ということで、今日もきちんきちんと、ゆるゆると。(Essay 14 おわり)
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