味方にして不足あり。
先日、僕の住んでいるマンションの管理人のKさんの話を書きました。
簡単に話をまとめてしまえば、管理人のKさんに連れられて(マンションに引っ越してきたばかりの)女性が僕の部屋の入口までやってきたお話です。
あの出来事があった翌日。僕はKさんが管理人室にいる時間をはかって彼に会いに行きました。
もちろん、あの日あぁなった経緯を訊くためです。
ふんふんと言いながらKさんの話を訊いていると、どうやら一緒に来たあの女性が「管理人なのにインターネットの接続の方法も知らないんですか?」的なことをKさんに向かって言ってきたらしく、
「わかったよ、お嬢さん。そこまで言うのならちょっと一緒に来てもらおうじゃないの」というノリで勢い勇んで僕の部屋まで来たようです。
しかしドアから出てきたのは寝起きわずか30秒でトイ・ストーリーのTシャツを着たメガネ姿の男(つまり僕です)。
Kさん的には「高木さんがいて心強かったよ!」とのことなんですが、冷静にあの場を第三者的視点から描写するのであれば、
僕たち(僕とKさん)はあの女性を前にして圧倒的劣勢の立場にあったように思えてなりません。
でも、僕はこういう日常のどこにでもある(かはわからないけれど)瞬間がけっこう好きです。
僕が小説を書いていると言うと、「俺の人生は小説の題材としてうってつけだよ」とか「私の人生は壮絶よ」と言って話を聞かせてくれる方がいます。
しかしながらその方々(タフな人生を生きておられる方々)の人生体験がそのまま小説に使われることはたぶんありません。
なぜなら僕は、誰の人生も(僕の人生も含めて)そのまま小説のなかに書くことは基本的にしない方針でいるからです。
ただ僕は思うんですが、今回の僕とKさんとのやりとりのように「ごくごく普通のありふれた日常」にこそ、
小説性というか、ドラマ性というか、ひとつひねればかなり不思議な話になるような「ぶっ飛び性」みたいなものが潜んでいる気がするのです。
だから僕はそういう「ありふれた」ことこそ、自分の頭のなかの抽斗(ひきだし)にそっとストックしてしていくのです。
それがいいのか、わるいのか、今のところ僕にはまだわからないのですが、、。(Essay 9 おわり)
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