懐中電灯と勇気と文体と。
The author is should be the last man to talk about his work.
(書き手はその作品について語る最後の人でなくてはならない。)
という言葉が僕は好きです。
だから僕もこの言葉に従って、先日アップした短編について、それ自体について話すのではなく、その周辺のことについて少し話してみたいと思います。
「周辺のこと」とはつまり、それを「書きはじめた場所」のこと、そこから「書いている最中に訪れた場所」、
そして「書き終えて僕が辿り着いた場所」の景色についてお話できればと思います。
そうすれば、作品自体を語るよりも、ある意味、より立体的にそれを浮かび上がらせることができるのではないか、そう思うわけです。
それでは、少し話をさせていただきます。
小説を書くという作業の疑似体験をいっしょにはじめてみましょう。
筋書きなしの小説
筋書き(プロット)もなしに小説なんて書けるのか?
それはわかりません。でも今のところ、基本的に僕はその手法で長編を1本と、短編を数本と超短篇を数本、書いています。
これからも同じようにして僕から「なにか」が出てくるのか? さらにはそれを出し続けられるのか?
それもわかりません。でも、筋書きもなしで書き進めた方が圧倒的に面白いと思うんですね。
なら「物語の終わりはどうか?」と聞かれれば、それはきっと「書いていれば分かる」と思うのです。
ある小説家が言っていたんですが、「セックスと同じさ。終わればそれが終わったと分かる」。
なかなか面白い言葉ですよね。
さぁ、今回はひとまず「筋書きなし」で小説を書き進めていくとしましょう。
そうしてひとまずスタート地点(物語の出だし部分)に立った僕らは、
これからどこに向かうべきなのか?
それはもちろん、決まっています。
地下です。
地下へ地下へと
降りていく
春樹さんは人の精神的な構造を「家」に例えています。
まずは戸建ての家を想像してみてください。
(『みみずくは黄昏に飛びたつ』より)
※小説家の川上未映子さんが書いたイラストです。可愛いですよね。笑
「1階」は家族全員が集まる団欒(だんらん)の場所です。そこは社会的で、賑やかな場所です。
そして「2階」はプライベートなスペースです。そこには自分の大切なものがあって一人になれる場所です。
普通、物語というものは基本的にその1階部分と2階部分を行き来しながら描かれます。
しかしその家でウロウロしていると(つまり物語を書き進めていると)、
僕らは「地下への階段」を見つけてしまうわけです。
この「地下1階」の部分は自分の意識と密接に関わっている場所です。
そしてそんな場所のことを普段は人にはあまり語らないし、ましてや自ら進んでそれを見に行ったりもしません。
さて、それでも僕らは、この「地下1階への階段」を見つけてしまったわけです。
僕らはここからどうするべきなのでしょうか?
「Go」 or 「No Go」?
(行くべきか、行かざるべきか)
答えはもちろん、「Go」です。
恐れずに地下1階を描写する
小説を書くときって、この「地下1階のこと」は必ず書かれなければならないと僕は思っています。
そうでなければ、そもそもその物語には「書かれる意味」がないとさえ僕は考えています(あくまで個人的な意見です)。
たとえそれが醜い部分であっても(醜いことであればあるほど)、それは「書かれるべき」マテリアルなのだと思います。
そしてそのマテリアルは、ときに人を怒らせ、悲しませ、驚かせたり、問いただしたり、立ち止まらせたりして心を揺らします。
でもある意味それが本当の「癒やし」なのだと僕は思っています。
(痛みや怒りがあるところに、その人の大切なものが眠っていると思うからです。)
さぁ、いずれにしても僕らはひとまず「地下1階」まではどうにかこうにかやってきたわけです。
そこまで辿り着いて、またウロウロしていると、実はそこに「別の階段」があったことに僕らは気付かされるわけです。
そう。その家には「地下2階(らしき)部分」が存在していた。
つまり、そもそもの家の構造はこうだった、ということです。
↓
さぁ、Go or No Go、僕たちはどうするべきなのでしょうか?
必要なのは勇気と懐中電灯
ただでさえ、暗くひんやりとしている「地下1階」。
そこで、さらに地下に続く階段を見つけたらあなたはどうしますか?
地下に降りていくときに、僕らに必要なものをハルキくんはこんなふうに表現しています。
(『村上さんのところ』より)
そう、地下に降りていくためには「懐中電灯」と「勇気」が必要なんです。
そしてハルキくんは別の本で「もうひとつ」これらに付け加えています。
それは『文体』です。
これはきっと作家にとっての命綱のようなものであって、
きちんとした文体がなければ、「地下2階」まで降りていくことはできても、
そこから戻ってこれなくなってしまうんだと個人的には考えています。
実は僕は先日書いてここにアップした短編を書いた際、
そのあたりの感覚をうまくつかめないまま、地下2階(あたり)まで降りていこうとしてしまいました。
それこそ「好奇心」だけで、少し深いところまで降りていこうとしたわけです。
そして最終的にあの「兎(うさぎ)」の検閲に引っかかってしまったんです。
老婆はクリアすることができても、あの兎はどうしてもクリアできなかった。そういうことです。
老婆は迷っていた主人公でも見過ごしてくれましたが、兎は厳しかった。そうとも言えます。
今回の短編をお読みなった方はわかるかもしれませんが、
あのラスト部分は「好奇心だけ」でなにかをすることの危うさをあの「兎」が指摘してくれていたんだと思います。
君にはそこに行く「覚悟」や「意志」はあるのか? と言われて頬をピシャリとされた、そんな感じでした。
だから僕は引き返して、体勢を立て直すことにしました。
(それゆえ今回の終わり方はあんな感じになってしまったわけです。つまり僕の技術不足です。スミマセン。)
物語を寝かせる
個人的に今回の短編には「長編になるだけの質量(密度)」みたいなものを感じています。
つまり、まだまだ描けるだけの「大きなスケールを持った家」がそこにはある、ということです。
だから僕は、今回のこの短編をしばらく抽斗(ひきだし)にしまって、寝かせてみることにします。
とはいえ、こうしてWEB上で晒(さら)してしまっている時点で、厳密な意味での寝かせ作業ではなくなっていますが、
今回はなんだかなるべく多くの人にこの短編を読んでもらった方がいいような気がしたんです。
いつか届けばそれでいい
あなたがこの短編を読むのはいつになるのでしょうか?
そして、数年後にあなたがこれを読んでいるとき、僕はいったいどこに辿り着いているのでしょうか?
(もしかしたらどこにも辿り着いていないのかもしれない。)
そのころ、僕はこれを下敷きにして長編を書き上げているのでしょうか?
(もしかしたら書きはじめのタイミングを見誤って、その勝負に負けているのかもしれない。)
いずれにしても、僕は、これからの僕という存在が楽しみです。
そして、いつかこの物語があなたに届くことを願っています。
今回この短編を書かせていただいたことに、僕はとても感謝しています。
これからも「物語が出てくる身体づくり」と「地下まで潜っていけるだけの文体づくり」に、こせこせと励んでいきたいと思います。
それでは引き続き、よろしくお願いします。
2017年9月18日
高木建之介
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短編を最初から読んでみる。
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