何者でもない自分を受け入れる。
僕はいつも「何者か」になりたがる。
それはきっと「確固たる自分」でないと、
誰かに受けれ入れてもらえないような気がするからだ。
僕はいつも「何者か」で在りたがる。
それはきっと「こういう自分」なんだと、
社会や周りの人に思ってもらわないと不安になるからだ。
でもそれはつまり「自分が何者でもないこと」を証明するようなもの。
別に僕たちは何者でなくても、意外と愛されるし、
特に大した何者でなくても、受け入れてもらえる。
◯◯な自分でないと、△△できない、、。
✕✕な自分だったら、△△できるのに、、。
それは誰が作った法律?
それは自分が自分を守るために作った法律。
それはタガタメの制約?
それは「素のまま自分」で勝負しなくてもいいようにするための制約。
そのままの「何者でもない自分」で勝負して、失敗したり、破れてしまったら、
そんな自分には目も当てられないし、「愛されない」と思っているから。
でも行くとこまで行って、吹っ切れて、
「別に何者かである必要なんてないんだ」って気がついて、
今の自分をまるっとそのまま、受け入れてみる。
そしてその「何者でもない自分」で勝負しようと決めてみる。
そこで思ったことや、「それでも」やりたいことが
もしかしたら、「本当のこと」なのかもしれない。
本当の何かはいつも、
色々なものを足したとこにあるのではなく、
ありとあらゆるものを引いたところにある。
才能とかスキルとか、可能性とかお金とか、
そういうものが今はまだまったくなくても、
そこに行きたいと思うか、やってみたいと思うか。
色々なものを引き算して、そこに残ったものが、
「本当にやりたいこと」なのかもしれない。
そんなことを思う、満月の夜。
高速道路の音と、誰かの声。
さてと。
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