誰かに嫌われるということ。



こんばんは。ケニーです。高木です。ハローです。どうもです。



さてさて、5月にやっていたクラウドファウンディングのリターンの商品を



昨日ついに発送しました。パチパチパチ〜(勝手にお祝い♫)。



今回のリターンの内容は、


1)お礼状と写真

2)フォトアルバム

3)短編小説1〜3つ


でした。


商品の画像はこんな感じです。





小説の反応はもちろん気になります。



僕はこのブログでも10本ほどの超短篇と



クラファンのリターンにもした短編を3本、



そして現在は長編を執筆していますが、



そのどれも僕なりに愛着がありますし、



手を抜いて書いた作品なんてひとつもありません。




自分を外に

出すということ




それでもやっぱり、合わない人には合わないし、



「お前の小説はつまらない」とか「読む価値がない」とか「時間のムダ」とか、



きっとこれから色々な言葉に触れることになると思うんです。



でもそれが自分を世の中に出していくことだし、



むしろそういう声が聞こえてこない方が不自然だと僕は思っています。




よく言う人もいるし
悪く人も必ずいる。




世の中にはたとえどんなに良いことを言ったって、



たとえどんなに一生懸命何かをやったって、



きちんと否定してくる人や、とんでもなく批判してくる人はいます。



同時に、「気にも留めない人」や「興味を持ってくれない人」もいます。



それはもう本当に仕方のないことで、そこは割り切るほかありません。



そこにいちいち反応することよりも、自分のファンになってくれた人をとことん大切にする方がきっと重要です。



でもファンを意識しすぎるとまた大変になことになってしまうんです、、。



(このあたりのバランスが難しい。)




相手を大切にするのと
相手に合わせるのとは違う




村上春樹さんの作品だって好き嫌いが分かれるし、



この作品は好きだけど、この作品はイマイチだって言う人もいます。



ところが数年経ってから、その「イマイチだったもの」に触れてみて



めっちゃ感動することだってあったりします。



もし春樹さんが「こういうのがウケそうだから」というスタンスで小説を書いていたら、



こういうことは確実に起きないと思いますし、



30年経ってもまだ書店に置かれている本も生まれないと思います。



(春樹さん的に言えば、これが「時の洗礼を受ける」という過程です。)



だから世間とか自分のことを(一時的に)好いてくれた人に合わせて何かをやってしまうと、



そこにはやはり限界が来ると思います。



これは他のことをすべて無視して、偏狭(ヘンキョウ)になれとか、



頑固になれということではありません。



むしろそれとは真逆のようにすら感じます。



それは判断やジャッジを乗せずに、世の中を注意深く観察した上で、



色々なことを自分の中に落とし込んで、消化して、昇華させて、



そこでできたものを外に出していく作業です。



自分らしさを大切にしながら、こんな内的作業を繰り返すんです。



そして、それによって生まれ出たものをそれを気に入ってくれた人と分かち合うんです。




世界と自分の折衷点




これらの作業をひと言で言えば、「自分と世界との折り合いの付け方」ということになるかもしれません。



世の中には人の数だけ、そういう「自分なりの折り合いの付け方」が存在すると思います。



(会議とかよく使う「折衷案(せっちゅうあん)」ってやつです。)



どれだけ世の中に深く関わり、どれだけ一人の世界を守るのか。



どれだけ自分の才能を信じて、どれだけ疑がうのか。



どれだけ一人でやって、どこから人を頼るのか。



僕にとって仕事は、そういう「折り合いの付け方」を学び、確認し、修正していくための作業なのかもしれません。



あなたはどこで折り合いを付けるんでしょう?



そして、これからの僕はどの位置にそれを見つけるんでしょう?



そんなことを日々考えながら、文章を書き、外苑前を走り、



気付いたことをコンサルで発信しながら生活をしています。



いつか、あなたに直接お会い出来るのを楽しみにしています。



さてと。



言葉のちから

僕らの言葉と想いと行動が きっと世界を変えていく 少しだけいい方向に

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