SUDDEN FICTION 〜超短篇小説9〜



彼はこのときほど「ホシガラス的な記憶力」を欲したことはなかった。





北米西部に生息するホシガラスは秋に松の実を大量に集め、それらを色々な場所に隠す。



その数、約8,500箇所。そして北限の大地を雪が覆う。



もちろん彼らが貯蔵したその食糧も見えなくなる。



しかし彼らはその後数ヶ月の間、その松の実のうち、



じつに8割以上の場所を記憶していて、それを雪の下から見つけ出す。



つまり、7,000箇所以上を記憶していることになる。





大学の講義で聞いたその話を彼は覚えていた。



彼にはとてもそんなことは出来ないとひどく驚いたことで、



そのホシガラスは「記憶力の象徴」としてその後も彼の人生に居座ることになった。



彼はその北米にいる鳥のことを事あるごとに思い出した。



それは主に記憶を試されるテスト会場のことが多かった。



そうでなければそれは女性との記念日を思い出すときだ。



女性は昔のことを覚えていないとなぜかひどく落胆したり、



ときには怒ったりする不思議な性質を持っていると彼はよく感じたものだった。



そして彼は今まさにその記憶力を欲しっていた。そのホシガラス的な記憶力を、、。





その手紙は拝啓で始まり、やはり敬具で終わっていた。



まえがきとあとがき。始まりと終わり。



アメリカ大陸を横断する道路がシカゴで始まりサンタモニカで終わるようなものだ。



カナダ大陸横断道路でいえば……、やめよう。キリがない。



とにかくその手紙の形式は、きちんとした「手紙という体裁」をとっていた。



しかしその体裁は最初と最後だけであった。



まるでバンズで何かをサンドすればハンバーガーでしょといわんばかりだ。





手紙の中身に感じた違和感、それはその文章の句点の多さにあった。



お元気、ですか。わたしは、元気にやっています。こちらに来て、今日で、5日と、10時間ほどが、経ちました。



そんな具合だ。



それはまるで小学生に文節を問う国語の問題のような文章だった(だとしたらそれは、いささか誤りの多い回答であった)。





彼はその手紙を郵便受けの中から取り出したとき、少し不思議に思った。



宛名は彼の名前なのだが、差出人が書いていない。彼には密文書をやりとりする相手も心当たりがなかった。



彼はマンションのエレベーターに乗り、行き先階のボタンを押す。



手紙の差出人が気になったので、封を切って中身を確認してみることにした。



ペーパーナイフは持っていなかったので、部屋のキーを使って開けることにした。



こんなときにペーパーナイフを持ち合わせているのは、乾電池を携帯しているくらい珍しいことなのだ。





封を完全に開けきるのと同じタイミングでエレベーターのドアも開いた。



彼はその手紙を自分の部屋の扉の前ですっかり開けて取り出して広げていた。



封筒の中には短冊型の小さな紙が二枚綴りになって入っていた。




拝啓


お元気、ですか。わたしは、元気にやっています。


こちらに来て、今日で、5日と、10時間ほどが、経ちました。


新しい土地、というのは、


まるで、自分の、細胞がすべて、入れ替わるような、気持ちに、なります。


いつか、一緒に、ショパンの曲を、聴いたの、を覚えて、いますか? 


ピアノ協奏曲第一番、です。懐かしい、ですね。


ショパン、を思い出すとき、あなたの、左の鎖骨にある、


ホクロも、自動的に、思い、出されます。


懐かしい、ですね。では、また、連絡、します。


敬具



いったいこれは誰からの手紙なのだろうと彼は思った。



彼はそのままドアを開けるのも忘れ、そこに立ち尽くしていた。



足はまるで大木の根のように深くコンクリートの床面をつかんだように離れなかった。



大型の台風が来ても今の彼を倒せそうにない。





なぜ彼女(おそらく女性だろう)が彼のホクロのことを知っているのか、



彼にはまるで見当が付かなかった。しかも彼女は彼の住所を知っているのだ。



確かに彼女の言うとおり、彼の「左、鎖骨」にはホクロが1つある。



しかもそれは普通なら見えない場所にあった。



そして何より彼を混乱させたのは、ショパンの曲を誰かと聴いた記憶がないことだった。



彼はときどき実家の父の部屋にこっそり入ってショパンを聴いた。



しかしそれを、誰かと一緒に聴いた記憶が彼にはなかったのだ。



家族と聴いたこともなければ、当時の彼女とも聴いたことなんてなかった。



飼っていたアビシニアンだってそこにはいなかったはずだ。



それが彼を深く混乱させた。





彼はしばらくそこで記憶の糸を辿ってみたが、どれだけ考えても答えは出なかった。



彼は部屋に入ると靴を脱ぎ、ワンルームの窓辺にある机にその手紙を置いた。



そして冷蔵庫を開けてハイネケンの瓶を取り出し、フタを開けて勢い良く半分飲んだ。



自分がハイネケンを好きなことも彼女は知っていのだろうか? と彼は思わずにはいられなかった。



ホシガラスなら彼女の名前を覚えているのだろうか。降り積もった雪の下にあるショパンの記憶を。



彼はハイネケンの瓶を空にする。



(おわり)

言葉のちから

僕らの言葉と想いと行動が きっと世界を変えていく 少しだけいい方向に

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