自分会議。
何かをするとき、何かを言葉にするとき、
子供はスーッと行動できてしまう。
面白そうな遊具があればそこに走っていくし、
きれいな花があれば何のチュウチョもなくそこに寄っていく。
アニメのキャラを見て、それになりきることも容易いし、
くり返し観た映画を観て、飽きもせず同じ場面で大笑いする。
僕らがいつからか、できなくなってしまったことを、
子供はいとも簡単に、ときには容赦なく、こちらに見せてくれる。
それが小学生になるころには、いつのまにか誰かと比較することを覚え、
中学生になるころには、自分の出し方を忘れ、
それ以上になると、自分ではないものを自分だと思い込んでさえ、してしまう。
自分の出し方を覚えているかなあ?
と自問してみると、答えは「うーん、どうだろ」って感じで、
今の自分が本当っぽくもあり、嘘っぽくもある。
まだまだこんなもんじゃないよな、という自分もいるし、
いやいや、そうはいっても、ここからどうやって、、、という自分もいる。
そうして、いろんな自分が席について、自分の中で会議が行われる。
でも、気づけば、そこに、自分「以外」の誰かが座っている。
やれやれ、と僕は思う。まいったな。
なんで、会社の先輩や上司が、そこにいるんだ。
しかも、彼らはもう辞めた会社の人間じゃないか。
なんで、先生がそこにいるんだ。親が、そこにいるんだ。
しかも、あの先生はもう現役を退いた人じゃないか(僕はとっくに、そこを卒業しているし)。
なんで、パートナーが、そこにいるんだ。
こんなこと言ったらまた怒られちまうかもしれないな。
彼らはそうして、優しそうな言葉を遣う。
「お前のためを思っている」「あなたのためを思っている」と彼らは言う。
「これでいいんだ、それがベストだ、うん、やっぱり、そっちだよね」と僕も言う。
そして、そもそも、何の話し合いだったのかも分からぬまま、
それらしい答えに向かって、会議は進められる。
「そう、彼らは、僕のことを思ってくれているのだから」と僕は思う。
「言われたとおり、なってほしい姿になれば、なんの問題もないはずだ」と僕は思う。
そして、今日も会議は続く。
もっともらしい、答えに向かって。
やれやれ。
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