言葉の記憶。
僕という人間はよく、
物事やできごとを、やたらめったらにつなげて、
それはこういうことが原因だとか、
こうしたら、きっと良くなるとか、
世の中ってつまり、、人生ってつまり、、的な言葉で、
世界をまとめようとする。
それは、ときに人に対しても発動されてしまって、
誰かを勝手に定義したり、見抜いた風な発言をして、
その人をがんじ搦めにしてしまうことがある。
それがその人の助けになることもあれば、
息苦しくしてしまうときもある。
たぶん、きっと、後者の方が多いはずだ。
そんなときは、新川和江さんの詩を思い出す。
今の中学生はこの詩に触れているのかわからないけど、
改めてこの詩を読んでみる。
わたしを束ねないで
(1966年 昭和41年)
わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱(ねぎ)のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色(こんじき)の稲穂
わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽撃(はばた)き
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音
わたしを注(つ)がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮(うしお) ふちのない水
わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
座りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風
わたしを区切らないで
,(コンマ)や.(ピリオド)いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終りのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩
歌詞も詩もキャッチコピーも、
電車の中吊り広告だって、
言葉はあらゆるところにあふれているけど、
その中でも覚えているのはほんのわずかで、
その時々、自分の心理状態や体調、近況によって
響いたり、刺さったり、イライラしたり、
ほっこりしたり、笑えたりする。
下の方からもわもわと湧いてくる、熱々のお味噌汁みたく、
言葉の記憶もまた、ふとした瞬間に湧いては消えていく。
僕の文章がいったいどのくらいの人に届いているのかはわからない。
それでも僕が書くのは、
きっと、必要な人に、必要なタイミングで言葉が届くと信じているからだと思う。
言葉はいつも危うくて、すべてを現すことはできないけれど、
僕はやっぱりその危うさの上で、やっていくしかない。
誰かを束ねてしまわぬように、
がんじ搦めにしてしまわぬように、
細い糸で、そっと点と点を結ぶ。
さてと。
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