スカーレット 〜超短編〜
彼女の名はスカーレット。本名は知らない。
僕は彼女にまた会えるかもしれなし、会えないかもしれない。
僕は彼女に精神的な結びつきを感じたが、彼女が僕にそんなものを感じたのかは知らない。
彼女の名はスカーレット。
スターレットでもなくスタートレックでもなく、スカーレット。
「スピッツが好きなのかい?」と僕は訊ねてみた。
「なにそれ?」そう言って彼女はペリエを飲んだ(そのとき彼女はペリエの小瓶を持っていた)。
我々は高校生で、それはひどく微妙な年頃だった。
その日僕はいつもどおり屋上で夕日を眺めていた。
日没の1時間前に屋上に登り、コーラのプルリング引く。
そして1/3を一気に飲んで、思い切りゲップをする。
それが夕日を見るための儀式のような作業だった。
屋上からの夕日。プルリング。大きなゲップ。
その日も、悪くない流れだった。
しばらくして背後から足音が聞こえたので、僕はあれこれ言い訳を考えた。
(あぁ、先生。こんなところで会うなんて偶然ですね。
えぇ、そうです。テニスボールを探していたら、ここにたどり着いたんです。
え? そうです。テニスボールを探していたんです。野球ボールではなくて。)
いや、これではダメだ信憑性がない。
やはり野球ボールでいこう、と決めて僕が振り向くと、それは先生ではなかった。
彼女は僕の右手の限界の少し先のあたりに腰掛けて、ペリエを開けた。
そして「よく来るの?」と訊ねた。
「まあね」と僕は答えた。「野球ボールを探しに来るんだ」
「野球ボール?」と彼女は言った。
「いや、なんでもない。ただの予行練習さ」
彼女は何かを探すように僕の顔をじっと見つめた。
その瞳をよく見ると、僕がはっきりと映っているのが分かった。
「夕日って大嫌い」と少ししてから彼女は言った。
「なぜ?」
「すごく綺麗だから」と彼女は言った。
「綺麗だから、嫌いなの?」
彼女は2センチくらい肯いた。「綺麗なものはみんな嫌い」
「ふうん」と僕は言った。「僕は夕日が好きだけどね」
「あなたは綺麗なものがどうなっちゃうか、知らないのよ」
「そうかもしれない」と僕は認めた。
「綺麗なものは崩れたり、壊れたりしなきゃダメなの」と彼女は言った。
「綺麗なのに、明日も明後日も、来年も再来年も、
20年後も100年後も綺麗だなんて、許されないのよ」
「そういう変化がないから、夕日が嫌いなわけ?」と僕は訊ねた。
「そう」と彼女は言った。「でも、綺麗なものも嫌い。
それはいずれなくなってしまうから。
だけど形の変わらない綺麗なものはもっと嫌い」
「なら、なんでまた、そんなに嫌いなものをわざわざ見に来たわけ?」
僕は返事を待ってみたが、結局彼女は何も言わなかった。
その代わりにまたじっと僕を見つめた。
僕は少し居心地が悪くなってコーラをほとんど飲みきってしまった。
それは見たことのない顔だった。
僕は彼女と廊下ですれ違った記憶もなければ、
球技大会で見かけたこともなかった。
ペリエを売っている自販機が校内にあるのかもわからなかった。
顔の作りは比較的整った部類に入るだろうけど、
極めて印象の薄い不思議な作りをしていた。
特徴といえば、横に薄く引かれた唇くらいだった。
「あなた何年生?」と彼女はその唇をわずかに動かして言った。
「2年生だよ」と僕は彼女の反応を見逃さないように答えた。「君は?」
「学年なんていいじゃない、別に」
「君が聞いたんだろ?」
「ねぇ、さっきの質問に答えてなかったわよね、
私。わざわざ嫌いなものを見に来る理由」
そうだね、と僕はあきらめて言った。
「逃げたくないのよ」と彼女は言った。
「綺麗で邪悪で、変わらなくて、おぞましいものから、私は逃げたくないの」
僕は黙って彼女を見つめた。
「逃げたくもないし、見ないふりをしたくもない」
「ずいぶんタフな生き方だね」と僕は言った。
「僕はそんなものからは、片っ端から逃げてきたけど」
今日の補講からだって逃げてきたんだ、と言おうとしたが、僕は黙っておいた。
「人生に対する、態度の違いね」と彼女は言った。
「人生に対する態度の違い。
なるほど。悪くない表現だ。
たしかに。僕たちは態度が違う」
夕日の傾き方からすると、
そこに座りはじめてから20分ばかり経ったころだと僕は当たりをつけた。
ここに来ると時間の感覚に鋭くなるのだ。
僕はほとんど残っていないコーラをちびちびと飲み続けたが、
彼女はそれ以上ペリエを飲まなかった。
ところで、と僕は言った。「君、名前は?」
「スカーレット」と彼女は言った。
それはまるで用意していたように滑らかだった。
「スカーレット?」
「そう、スカーレット」
「それが君の本名なの?」と僕は言った。
「まさか」と言って彼女は肩を軽く上げた。
「なら」と僕は言った。「スピッツが好きなのかい?」
「なにそれ?」
我々はそれから15分ばかり一緒に座り、同じ夕日を見続けた。
飲んでいるものも違えば、生き方も違ったが、
我々は同じものを分かつ二人だった。
「ねぇ、私が先に帰るわね」と彼女は夕日を見たままで言った。
僕は彼女の方を見た。
細い唇に引かれたグロスかなにかが、夕日を受けてつるりと光っていた。
「でも、あそこを降りるのはけっこう厄介だぜ?」と僕は言った。
「たいていのものは登るときよりも降りるときの方が危ないんだ」
「大丈夫よ」彼女はきっぱりと言った。
5月の乾いた風が彼女の頬を撫でてから、僕の頬に当たった。
僕はそこに彼女の匂いを探したが、何もつかまえることができなかった。
「わかったよ」と僕は言った。
彼女は立ち上がって、スカートをハタハタと叩き、屋上の端に向かった。
僕は耳を澄ませて彼女が無事に降りられるか探っていたが、それらしい音は聞こえなかった。
彼女がいた場所を見ると、ペリエの小瓶が残されていた。
僕はそれを無理やり右ポケットに詰め込んで階段を降りた。
明日もまた晴れたらいい、と僕は思った。
(おわり)
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