傷は傷のまま。
僕にとって、小説を書くという作業は、
「自分を細分化して、それを拡張させるプロセス」です。
言い換えればそれは、自分を細かく「切り分け」て、
小さくなったその一部を「大きく」していくことだと思います。
ひとりの人間の中には、色々な自分がいますよね。
人のことを応援している自分がいると思ったら、
人のことを憎たらしいと思っている自分もいます。
なにかをやりたいな、と思っている自分もいれば、
それを面倒だな、と思っている自分もいます。
真面目にコツコツやっていきたい自分もいれば、
おちゃらけて、はっちゃけたい自分だっています。
これらはすべて、「ひとりの自分」の中に存在しています。
陰と陽、ポジとネガ、プラスとマイナスは、
片方が存在した瞬間、もう片方も存在することになります。
だから「ある自分」が生まれたら、
同時に「反対の自分」も生まれるのです。
その片方だけを見ようとするから疲れてしまうと、僕は思うのです。
「両方あって、はじめて『本当の自分』なんだ」と思えること。
それが大切だと僕は思うのです。
僕が小説を書くとき、そこには「可能性としての僕」が現れます。
それは「もしかしたら僕も、彼/彼女のようになっていたかもしれない」という可能性の人物です。
その人物になりきって、物語のなかで少なからざる経験をすることで、
僕という人間が補正されていくような気がするのです。
これは自己治癒とは少し違うと思うのです。
僕は「治癒」という言葉があまり好きではないのです。
もちろん、そういうことが起こることは素晴らしいとは思うんですが、
「なにも無理にそんなことをする必要もない」と思う自分もいるわけです。
傷があるなら傷のままとっておいても、いいじゃないですか、と。
だって、その傷は(少なくない部分で)あなたという人間を
「『あなた』 たらしめる」ものですし、それがなくなってしまったら、
ある種のバランスを人は崩してしまうと思うわけです。
だから傷は傷のまま、無理に癒やすでも放棄するでもなく、
ただ、それと共に生きればいいと、僕は思うのです。
僕らの中には色々な自分がいますし、色々な「可能性としての自分」がいます。
そして同時に、彼らはそれぞれに「傷」を抱えているものです。
僕の書く物語を読むことで、「あぁ、『もう片方の自分』も悪くないかも」とか
「別にあの過去を否定する必要なんてなかったんだな」とか
そんなことが、その人のなかで静かに起こったら、僕はとても嬉しく思うのです。
「どっちの自分も、すべていて、『本当の自分』なんだ」と。
まだデビューもしていないうちから、こんなことを書いていますが、
少なくとも僕はそういう姿勢で長編を書いています。
今年(2018年)の2月か3月に、次の長編を書きはじめることになる。
そんな気がしています。
次はどんな自分に会えるんでしょう。
それが怖くもあり、楽しみでもあります。
ということで、
あなたの傷は、無理にいじくらずに、
大切に持ち続ければいい、
そう思うのです。
2コメント
2018.01.17 14:45
2018.01.12 01:56