同じものから何をつくるか。



こんにちは、ケニーです。高木です。



今日はなんとなく僕が2011年にカナダにいたときに撮った写真(自撮り)からどうぞ。





僕がコンサルをするときには陰と陽の統合やポジとネガ、身体と心など「相反するもの」や一見必要ないように見える「反対側」の存在を大切にしています。



そういう「自分の片破(カタワレ)」を拾い集めて自分に「統合」すると僕らは本来の自分の力を使うことができるんです。



少なくとも僕はそう信じています。




「統合」と「村上春樹」




ところで、この「統合」の考えは、村上春樹の作品によく登場するモチーフでもあります。



『羊をめぐる冒険』という初期の作品はご存じですかね?



この作品は春樹さんが初期の2作を発表し、当時千駄ヶ谷でやっていたジャズ喫茶を売却して退路を絶って「本格的に書いた」3作目の長編です。



その後半で「僕」という人間の相反する存在として出てくる「鼠(ねずみ)」のこんなセリフがあります。



「我々はどうやら同じ材料から全くべつのものを作りあげてしまったようだね」



このときの構造は



現実世界でもがきながら何かをつかもうとした僕

あちらの世界にすっかり飲み込まれてしまった鼠



といった感じです。



同じ世界を生きていたにも関わらず、その世界の違う側面を見て、違うものを作ってしまった2人。



このシーンは、そんな彼らがお互いのことを理解(統合)する瞬間です(そしてそれを読者も同時に体験するわけです)。



その瞬間、とても大きな変化が起きると僕は思っています。



それは『ダンス・ダンス・ダンス』で言えば「僕と五反田くん」ですし、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』で言えば「僕と私」です。




僕らは何を見ているのか?




僕たちは同じ世界にいながら、まったく別のものを見ています。



それは常に寄り添って、とても仲がいいように見える夫婦やパートナーでさえもそうなのかもしれません。



しかし、そういう「自分のカタワレ」的な人が居てくれるから、僕らは「失くしかけた自己」を統合することができるのだと思います。



いつか失くした自分、置いてけぼりにした自分、黒歴史にしてしまった自分。



そんな自分を見せてくれる身近なあの人。



その人が意外と「自分が自分に戻るための鍵」を握ってくれているから、この世界はやっぱり面白いと思うんです。



相反するものを統合する物語。



ナシにしていた自分がアリだったと、過去を肯定できるような物語。



「黒」のオセロが一瞬にして「白」にひっくり返るような物語。



やっぱり僕は、そういう小説が書きたいのです。



こんな風に、書きたいことや思いや世界観はあるけれど、それを言葉にする力が僕にはまだなさすぎて、ときどき辟易としてしまいますが、



それでもやっぱり、いつかそういうことができるのではないかと信じて進む道は、決して悪くないと思うのです。



だからどうか、引き続き、よろしくお願いします。


言葉のちから

僕らの言葉と想いと行動が きっと世界を変えていく 少しだけいい方向に

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