SUDDEN FICTION 〜超短篇小説1〜
映画を観ていると、それは必ずやってくる。「おわり」とか「The end」とか、なかには「Fin」というのもある。いずれにしてもそこで映画自体は終わる。
映画が終わるたびに「ねぇ、このあとふたりはどうなったの?」とか「これでおわりじゃないんでしょ?」と言って親に迫った僕という人間は、おそらく育てづらい子供だったことだろうと思う。そして、その性向は二十歳を越えた今でもだいたいは変わらない(むしろ少しその度合を増したようにさえ思う)。
君も「ショーシャンクの空に」を観たことがあるかもしれない(そうだよ、あのスティーブン・キング原作のあれだ)。あのあと、主人公の彼はどうなったのか、君は疑問に思わなかっただろうか?僕は疑問で仕方なかった。ほんとうだよ。
映画を観終わったあとにした、ガールフレンドとのデートやそのあとのセックスなんて、実に業務的で、愛撫や挿入はある意味全自動で行われていたと思う。現に僕が覚えているのはその行為よりも、その最中ずっと、描かれれていない映画の続きが気になっていたってことなんだ。その娘には実に申し訳ない話なんだけど。
そうやって、セックスが終わったあとも、僕らの日常には「続き」があるわけだ。そう、映画とは違うんだ。
そこには怠惰な日常があるし、惰性的で、もしかしたら義務的とも呼ぶべき愛情表現が待っているかもしれない。チャット・ベイカーがサックスフォンだけはなく、ボーカルも務めたのは、もしかしたら、そんな惰性的な毎日を何とかしてカラフルにするためだったのかもしれない。
そうやって、僕らはそれぞれの日常をどうにかこうにか続けていかなくちゃならない。そこにそれぞれの、気晴らしを求めながら。
その気晴らしは、それが酒にせよ、歌うことにせよ、仕事に没頭することにせよ、サックスでもセックスでも、だいたい同じようなものだと思う。
本にだって上下巻がある。場合によってはシリーズものだってある。でも僕はやっぱり、物語が終わったあと、そこに出てくる彼らがどうなるのか、やはり気になってしまう。
そして、そのときも僕は、たしか本を読んでいたと思う。
「お前はまた本ばかり読んで、ろくな大人になれないぞ。もっと体験を重視しろよ、体験を」
大学の食堂の窓辺に座って本を読んでいた僕に向かって、田崎が言葉を投げる。もちろん、僕はその言葉を無視して、本を読み続ける。
「だいいちなんだよ、その『ノルウェイの森下』って。ノルウェイに森下クンがいるのかよ」
僕はまだ無視して、彼らの物語を読み続けていた。
「それに、その深緑のカバーも、なんだか気持ち悪いし」と彼は手を緩めない。
「ノルウェイの森」と僕は短く言った。「そしてこれは、その下巻だよ。ノルウェイの森下ではなく、ノルウェイの森【下】だよ。それに本の装丁について言及できるほど、君に芸術的な才能があるとは思えないけど」僕はそうやって投げやりに応えてしまうと、また本に目を戻した。
たしか季節は春で、僕はまだ若かったし、恋愛も政治も、そして牡蠣フライの味もろくに知らなかった。
食堂の窓から見える谷には川が流れていて、風に吹かれ散り始めた桜の花びらが、幾分もどかしそうに水面を流れていた。(おわり)
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