痛みは、痛みとして。
今日もまた10kmのランニングをする。
いつもどおり、神宮外苑の周回コースを山手線のように何度も回っていく。
一定の速度でニューバランスの靴を進め、
数分前に見た景色を再び身体に取り込んでいく。
走り始めはペースが乱れ、息も不規則に切れ、鼓動も安定しない。
僕はペースをつくることだけに意識を集中して歩を進めていく。
長編を書くときと同じだ。
最初はペースをつくってしまうことが重要なのだ。
小説の内容やそこで出会う景色を楽しむのはそのあとでいい。
ランニングも同じだ。
2周ほど走ったところでペースが安定してくる。
1周7分くらいのペースを保つ。
1kmあたりで言えば、5分15秒くらいのペースだ。
余裕があっても、ここではペースを上げない。
そうやって調子に乗ると必ず後でそのしわ寄せがくることを、
僕は経験的に知っているからだ。
そういうことを1つひとつ、僕はフィジカルに学んできた。
逆に少しきつくても、ペースはなるべく落とさないようにする。
10kmの目標タイムを達成するには、それなりの努力が必要なのだ。
3周目と4周目はほとんど自動で走っている。
このとき僕は、ほとんど瞑想状態にある。
昔の記憶がスッと顔を出すのはたいていこの時だ。
中学生の頃に受けたいじめの記憶がよみがえる。
高校生のときにある人をひどく傷つけてしまったことを思い出す。
カナダから帰国して、一時引きこもっていたときの自分が顔を出す。
以前はそれをずいぶん必死に受け入れようとしたり、
ポジティブに変換しようとしたりする僕がいたけれど、
今の僕は無理にそういうことはしない。
僕はそれらをただ、あるがままに、見つめる。
まるで青い空をゆっくり横切る白い雲を眺めるみたいに。
ただそこにあるものとして、僕はただ、それらを眺める。
受容もしなければ、許容もしない。
判断もしなければ、保留もしない。
ポジティブとも、ネガティブとも思わない。
ただそこにあるものとして、僕はただ、それらを眺める。
それでも僕はそこにわずかばかりの痛みを感じる。
痛みは僕の感情の動きとは別のところに眠っている。
やはり僕はその痛みを、ただ「痛み」として眺める。
判断をせず、ただ描写する。
少なくとも今の僕には、きっとそれが必要なのだ。
そういう痛みは普段は僕の中に眠っていて、こうしてときどき顔を出す。
その痛みは僕に何かを思い出させようとしているのかもしれない。
「お前にはまだこんな痛みがあるんだぞ」と彼らは言っているのかもしれない。
でも僕は痛みとつながったその記憶に、色をつけない。
雲が流れて視界から消えていくのと同じように、
それらの記憶もまた僕の心を静かに通り過ぎていく。
自分が傷ついた記憶。
誰かを傷つけてしまった記憶。
自分を損ねた記憶。
誰かを損ねてしまった記憶。
それらはただ流れ、それらをただ眺める。
僕はランニングをしているとき、そういうことをよく経験する。
6周目に差し掛かったあたりで少しペースを上げる。
ここを6周して、自宅付近にたどり着けば、トータルでちょうど10kmになる。
呼吸のリズムを1つ分変えて、肺の動きを速くする。
ストライドも大きくする。ニューバランスがそれに応える。
横を流れる景色が、少しだけ速くなる。
通りすぎる人も、遠くに見えるビル群も、過去の記憶も、
僕の後ろに消えていく。
そのうち腹直筋の上部が痛みはじめる。
珍しい。普段はこんなことはないのに。
いつも以上にペースを上げすぎたせいかもしれない。
僕は右手で痛みの箇所をもみほぐす。
それでも痛みは激しさを増していく。
過去の記憶たちが僕の心のどこかを刺激して、
「お前の中にはまだ痛みがあるんだぞ」と訴えるみたいに。
僕は「なんでこんなときに」と思う。「頼むから去ってくれ」と思う。
苛立ちと淡い期待と、なだめすかしが混じり合う。
「もうすぐゴールだから、それまで黙っていてくれ」と思う。
しかし、痛みは引かない。
しばらくして僕はあきらめて、痛みをただ痛みとして見つめるようにする。
物理的な傷みも、心の痛みも、同じように対処しようと努める。
たしかに筋肉は痛む。
しかしその痛みが「苦痛」かは、その持ち主次第だ。
Pain is inevitable. Suffering is optional.
痛みは避けがたいが、苦しみはこちら次第、なのだ。
いつだって、なんだって、きっとそうだろう。
そう僕は思う。
残りの距離は800mというところか。
痛みはまだなくならない。
けれど、それは苦痛ではない。
僕は足を止めない。そう決める。
結局僕はそういう性格なのだ。
走り終わってみると、もう夕闇は消えて夜の帳(とばり)が降りている。
街灯が照らすアスファルトに滴(したた)り落ちた僕の汗が黒いシミをつくる。
それは蒸発して大気に乗って世界を循環するのだろう。
呼吸が整ってから僕は、先ほど痛んだ腹のあたりを押さえる。
痛みはもうそこにはない。
けれど、それはきっと僕の奥にしまい込まれていて、
ときおり思い出したかのように、また顔を出すはずだ。
人の痛みというものは、汗のように簡単には循環しない種類のものなのだ。
簡単には消えない記憶と、僕らの痛み。
それらを抱えながら、僕らはこれからも平然と生きていくのだろう。
それぞれのペースを保ちながら。
(おわり)
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