心のありか。その3
僕はその土地の空気や雰囲気を、走ることで把握する。
梅雨(つゆ)時期の芦ノ湖は平日ともあって比較的空いている。
すれ違う人の半分以上は外国人だ。
キロあたり5分10秒〜20秒くらいのペースで走り始める。
しかしそれは正確なタイムではなく体感的なものだ。
このぐらいのピッチとストライドなら、このくらいのタイムだろう、
という、だいたいの感覚が身体に染み付いている。それだけだ。
*
元箱根近くに鳥居がいくつか見える。
1つ目の鳥居をくぐると、その先に小さな橋がある。
昔の人は「水路」を使って「あの世」と「この世」の境目を引いた。
「ここからは、幽世(かくりよ)」
以前見たアニメの映画で、とある老婆が言っていたのを思い出す。
2つ目の鳥居が見える。1つ目と2つ目の鳥居の間は「曖昧」な世界。
あの世でも、この世でもない、白でもない、黒でもない、はっきりしない世界。
ここからもっと進めばあの世だけれど、引き返せばそこはこの世だ。
なら、ここはどっちの世界だろう? と僕は疑問に思う。
日本人は元来、こういう「曖昧性」を上手に感じ取りながら生活してきたのだ。
アメリカの文学作品に登場する「善・悪」のコンセプトが日本でうまく流行らないのは、
日本がこういう「曖昧性」を重んじる社会だからだろう。
僕はそんなことを考えながら「曖昧な世界」の上を跨ぐその道に、身体を慣らしていく。
*
駅伝でも使われる国道1号線に入る。その道は勾配をつけて僕を試す。
ペースが少し落ちる。普段使わない筋肉たちが、いつもと違う状況に気づきはじめる。
僕はなるべくペースを落とさないように足を進める。
こういうときでもないと、勾配のある道でのトレーニングは積めない。
音を上げそうになる筋肉たちに「いい機会だから」と僕は言い聞かせる。
*
昨日は雨の降る神宮外苑を12キロ走らされ、
今日は今日でこんな急な坂道を走らされている。
僕が筋肉の立場だったら愚痴の一つでも言いたくなる。
悪態をつくかもしれないし、ストライキを起こすかもしれない。
でもひとまず彼らは黙って僕に付き合ってくれる。僕はそれに感謝する。
傾斜がきつくなってきた辺りで75号線に向かって進路を変える。
いくつかの緩いカーブを抜けていくうちに、常緑樹の厚いトンネルに世界が閉ざされていく。
下り坂は一向に現れない。
いつになったら長い下り坂になるのか、僕は不安になる。
でもきっと大丈夫だ。世界には上り坂と同じ数だけ下り坂があるのだから。
原理的に言って、上りっぱなしの道も下りっぱなしの道もない。
そう思い、僕は自分を鼓舞する。
しばらく走って僕は別の不安に襲われることになる。
この道を行って、本当にまた、芦ノ湖にたどり着くことができるのだろうか?
道はこれで本当に合っているのだろうか?
曇りの夕暮れの薄明かりを、林の木々が遮って、
その暗さのせいで僕は余計に不安になる。
先ほどホテルのフロンドで、もっときちんと道を確認すべきだった。
不安は後悔と入り混じり小さな怒りに変わる。
いや、でも。と僕は思い直す。
僕が来た道は、ほとんど一本道なのだ。
この道を引き返せば僕はきっと「元の場所」に戻れるはずだ。
しかしここしばらく、車の往来がないことに僕は思い当たる。
もしかしたら僕はもう、現実と非現実の不思議なポケットの中に吸い込まれてしまっていて、
この道を戻ったところで、元の場所なんかには戻れないのかもしれない。
ひょっとしたら僕は、あの世とこの世の間の「曖昧な世界」に迷い込んでしまったのかもしれない。
木々の匂いが深くなった頃、どこからともなくエンジンの音が聞こえる。
直列6気筒の乾いたサウンドだ。
スカイラインでもなく、BMWでもない。
トヨタのツアラー系の排気音だと僕は判断する。
でも、車はやってこない。音がどこかで聞こえるだけ。田舎の時報みたいに。
僕は時計を見る。ずいぶん前に買った安物の時計だ。
ストップ・ウォッチを見る限り、時間はたしかに進んでいる。
身体の疲れ具合や息の切れ方からすると、ここは現実世界で間違いないようだ。
道幅は狭く、歩道もない。ここでスポーツ・カーが猛スピードで現れたらひとたまりもない。
僕は自分の位置を調整する。
そのうち後方から車の音が近づいてくる。シビックが過ぎ去り、インプレッサが続く。
ヘッドライトの明かりが僕を見つけて、彼らは僕を避けていく。
僕以外の存在が久々に現れたことに僕は安堵(あんど)する。
しかし、と僕は思う。2台とも型がずいぶん古い。
EK9とGC8だ。それらはともに20年以上前の車だ。
僕の鼓動は早くなり、嫌な汗が額(ひたい)に混じる。
それは決してランニングだけのせいではない。
僕は自分の感覚に自信が持てなくなる。
そして僕は現行車の往来を望む。
デミオでもスイフトでもプリウスでも、
とにかく最近の車ならなんでもいい、と思う。
現実世界の「手応えのある何か」を僕は求める。
それからどのくらい走ったかはうまく思い出せない。
75号線の上りの区間が突如として終わり、下りに切り替わり、木々が開けて芦ノ湖が見える。
湖の位置を確認して僕は安心する。あとは湖に向かって分岐する道を探せばいいだけだ。
僕は膝に負担をかけないように下り坂を慎重に進む。
次第にペースも安定し、僕は汗を拭(ぬぐ)う。
分岐した細い道に入ってからホテルまではあっという間だった。
僕はやっと安心する。道は繋がっているのだと思う。
ポイントさえきちんと見極めることができれば、
人はきちんと元の場所に戻ってこられるのだ。
僕はホテルをパスしてそのまま箱根神社に向かう。
夕方5時を過ぎた境内(けいだい)にはほとんど人がいない。
僕は汗の噴き出した額(ひたい)を拭いながら、ひとつひとつ石段を登り、本殿に向かう。
鈴を慣らして手を合わせ賽銭を持ち合わせていないことを神様に詫びる。
そしてこの3日間、そこで世話になることを伝える。
僕は汗で冷えた身体を早く温めたいと思う。
ホテルに戻る際、雲がのいて、一瞬だけ湖に光が散る。
いや、もしかしたら、それは僕の単なる見間違いかもしれない。
現にそこにいた観光客は、誰一人としてシャッターを切らなかった。
ホテルに戻ったが、やはりフロントにあの丸顔の女性は見あたらない。
いや、そもそも、そんな女性はもともといなかったのかもしれない。
僕はまた現実世界の「重み」を、どこかに探し始める。
(おわり)
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