心のありか。その1
午前中のコンサルを終えて、12時前に急ぎ足で新宿に向かう。
気まぐれに晴れ上がった空からは太陽の日差しが降り注ぎ、
サラリーマンにジャケットを脱ぐことを要求している。
15分ほどでバスタ新宿に到着し、エレベーターを昇る。
急いで歩いたせいか、背中にはじっとりとした汗が滲んでいる。
リュックを片側にずらし、Tシャツをハタハタとさせる。
バスには僕以外にすでに5名が乗っている。
僕は一番前の席を指定される。僕が一番最後だ。
出発場所から、終点のホテルまで、僕は運転手と同じように、
最初から最後までそのバスに乗ることになる。
僕の目的地はそのホテルなのだ。
出発してしばらくの間、いくつかのバス停を経由して、バスは人を乗せていく。
「僕」というバスにも、過去に幾人もの人が乗り、そして降りていった。
ある人は大した関係も築くこともなく。
またある人は軽く挨拶を交わすくらいで。
みんな僕から降りていった。
ある人は僕に人差し指を突き刺して、非難したり、糾弾したりした。
そしてその人たちより「ずっと少ない数の人」と、
僕は親しくなった(少なくとも僕の方はそう感じている)。
でも大半の人は、僕というバスから降りていった。
ある人は自ら降り、またある人は誰かに勧められて降りていった。
彼らのその決断と行動を咎(とが)めることは、僕にはできない。
正しさは人によって違うから。
誰かが乗って、誰かが降りる。
乗っている間に何かを共有できる人もいれば、そうでない人もいる。
もちろん、まだ一緒に乗ってくれている人だっている。
僕はその人に会える日を楽しみにしている。
そして共に過ごせるうちに、できるだけ色々な景色を共有したいと僕は思う。
それは願いにも似た思いかもしれない。
今回の旅に僕は、アーヴィングとモーパッサンを持参した。
アーヴィングの長編を読んでいるうちに、いつの間にか僕は眠りに就く。
目を覚ました頃にはまた一人、乗客が減っている。そういうもんだと僕は思う。
ここは乗るのも、降りるのも、すべて自由なのだ。
僕が自分の自主性を相手に尊重してほしいと願うのと同じくらい、
僕だって相手の自主性を尊重したいと思う。
箱根の峠道をバスは抜けて行く。
ときおり、向こうから車が現れる。
こちらが道を譲ることもあれば、あちらが譲ってくれることもある。
そうやって僕らは、譲ったり譲られたり、
坂を上ったり下ったりして、目的地に到着する。
今回の目的地。「山のホテル」だ。
(つづく)
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