SUDDEN FICTION 〜超短篇小説5〜
それは突如として降り出した雨だった。
ある人はコンビニに避難し、何人かはカフェに入っていった。なかにはガード下でその雨をやり過ごそうとする人もいた。
僕は新宿の洋書専門店でハルキの本を2冊買って帰っている途中だった。
はじめて訪れたその書店には洋書しかなく、海外のインクと紙の匂いがして、僕はそこにいるだけで幸せな気持ちになれた。
帰路の途中、空がゴロゴロと鳴り出した。そして時おり、雷光を雲間に走らせていた。
僕はもちろん急いだのだが、駅の改札近くまで来たあたりで、あえなく、その雨に捕まってしまった。僕も、というのはつまりその他大勢の人も、という意味だ。
人々はその改札前のスペースで、空模様を気にしたり時計を気にしたりしながら、アスファルトの上にできた水溜りを眺めていた。
雨脚の強さをそうやって確認しているのだ。
ソワソワするものもいれば、半ばあきらめているように見えるものもいた。
僕は、あと10分は足止めを食らうことを覚悟した。
そして、そのうち空気もひんやりしてくるのだろうと思った。昔、塾で、子どもたちに教えた内容だ。
寒冷前線がにわか雨を降らせ、そのあとに、寒気(カンキ)がやってくるのだ。
仕方なく僕は、袋から短篇のペーパーバックを取り出し、目次に目をやると、その奇譚(キタン)に満ちた物語に入っていた。
それは、ある母親が19歳の息子を海で亡くしてしまうことから始まる話だった。
僕は一度その内容を日本語で読んで、その流れるような文体に引き込まれ最後まで一気に読んでしまった覚えがある。
いつかそれを英語で読んでみたいと以前から思っていたが、今日の昼下がり、ロンハーマンでサーフボードを目にしてしまったことで、
僕の中に眠っていたその好奇心がムクリと起き上がってしまったに違いなかった。
その短篇にはサーフボードが出てくるのだ。
そして、かなり遅い昼食を摂ったのち、僕は新宿まで歩いて向かった。
そして、これはその帰り道の出来事だった。
それは4月になったばかりで、僕はとくに仕事なんてしていなくて、毎日本を読んで、運動をして、そして文章を綴っているだけだった。
何も書けなくても、決まった時間に決まった場所で時間を過ごすようにしていた。
書けるときは書けるし、書けないときは書けない。たとえ書けなくても(書きたくなくても)、そこに座っていることが大切だった。
レイモンド・チャンドラーが毎日そうしていたように。
この雨で「いよいよ」と勇んで咲いた桜の花たちが、その有志も虚しく、いくらか散ってしまうだろうと思ったら少し悲しくなった。
でも、それが自然の摂理なのだ。咲くも花なら散るも花。その一瞬があまりにも美しいのだ。
散らない桜もないし、止まない雨もない。
そう思い至ってから僕は、ある女の子に言われたひと言を思い出した。
「キザってどうやって書くか知ってる?」 ―いや、知らない。―
「気障り、つまり気が障ると書いて、キザって読むのよ」と言いながら彼女は空中で筆代わりに指を走らせて見せた。たぶん「気障」と書いていたのだろう。
たしかに僕の言い回しは、ときどき(往々にして)気障になってしまう。
そして、それが往々にして人を苛立たせた。きっと気に障ることを言ってしまうのだろう。
自分でも直さなきゃいけない癖だとも思っている。でも、直せないのだ。
だから、いっそのこと、それを強めてしまおうと思い始めてさえいた。
僕は短篇を読み進めていった。
比較的、平易な単語が遣われていたため、自然とその世界に入っていくことができた。きっと、あらすじを知っているのも大きいはずだ。
改札から出てきた人で傘を持たぬ人は、タクシーを捕まえたり、そこにとどまったり、いくらか躊躇してから路に飛び出していく人もいた。
まるで巣から初めて空に羽ばたく雛鳥のように。
帰宅ラッシュとも重なっていた時間帯だったためか、そのスペースは次第に人で埋まっていった。
雨の降りが激しくなってきて、それがここから飛び出していこうとする人たちの決意をことごとく粉砕したことも、要因の一つかもしれない。
僕はふと、その改札前のごくごく普通の、何気ない景色を眺めてみた。
そこには、学生風の人や、スーツの人、OLらしき人、そして、ビラ配り人まで、そこで雨をやり過ごしていた。
僕はそこから何か物語が始まるのかもしれないと思って、頭の隅をつついてみた(もちろん比喩的な意味で)。
でも、そこからは何も立ち上がってこなかった。
改札は改札で、いわゆる改札的な動作を繰り返していたし、券売機も同じだった。駅員さえ機械と同じに見えた。
きっとどれだけ考えても、ここから物語は始まらないのだろうと僕は思った。
これは使いみちのない「ただの風景」なのだ。
だからといって僕はそこで落胆もしないし、目の前にいる人たちを非難したりすることはない。だって、それはただの風景なのだから。
そして僕はもう一度、手元のペーパーバックに目を戻す。
その主人公の母親は息子の遺体を火葬してもらう際の費用をアメックスのクレジットカードで支払った。
彼女はその行為に、非現実性を感じずにはいられなかった。
そして僕は物語を読みながら、「これから僕も、いくつか大切な人の死というものを経験することになるだろう」と思った。
それらの事実は、僕たちを簡単に通り過ぎていってくれるのだろうか?ちょうどこのにわか雨のように。
その短篇の前半に出てくる、警察官のひと言がやけに胸に残った。
「大義がどうであれ、戦争における死は、それぞれの側にある怒りや憎しみによってもたらされるものです。
でも自然はそうではない。自然には側のようなものはありません。
あなたにとっては本当につらい体験だと思いますが、できることならそう考えてみてください。
息子さんは大義や怒りや憎しみなんかとは無縁に、自然の循環の中に戻っていったのだと」
こうやって僕らは、日々起こる「にわか雨」的な出来事を静かにやり過ごし、消化していくのだと思った。(おわり)
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2018.04.08 21:04