SUDDEN FICTION 〜超短篇小説3〜
その年僕は、日本の季節の数より少し多めの女性と交わった。
たぶんその時期は、いつも以上に少し女性から好かれてしまう星回りだったんだろう。なぜだかわからないけれど、人生にはそういう時期があるんだ。
でも不思議とそうやって知り合った女性の名前を、一人として思い出すことができないんだよ。
僕がなぜ、こんな話を持ち出すかって言えば、さっき、そのうちの「5人めの女性」に会ったからなんだ。近くのバーでの話だよ。僕は、そこによく一人で行くんだ。
でも、レコードのことはよくわからないし、アンプのことだってわからない。
でも僕は、そこのスツール椅子が好きなんだ。たぶん輸入物だと思うよ。あっちのはごく普通の形をしているけれど、実に座り心地がいいものが多いからね。
もっと詳しく言うと(君は少し煙たそうな顔をするかもしれないけれど)、そのバーのカウンターの一番奥にある椅子が特に座り心地が良いんだ。
それには独特の「へたり」があってね。その椅子だったら多分2光年くらい座っていても、僕は飽きない。
だから今日も、僕は仕事終わりにその椅子に座って、一人でジン・トニックをちびちびと飲んでいたんだ。すると、女性が話しかけてきた。
「久しぶりですね」ってね。
はじめは娼婦かとも思ったけど、そんなタイプの人が来るような場所でもない。だから僕は、「ハニー・トラップ」か何かかとも思ったんだ。
けれど、僕はそんな地位でもないし、こんな輩にトラップを仕掛けても得るものより、失うものの方がきっと多いはずさ。
だから僕も答えたんだ。「久しぶりですね」って、こうグラスを上げてね。
たぶん、そのときはスタン・ゲッツの曲がかかっていたと思う(そのくらい僕にもわかるさ)。
もちろん、彼女の顔に覚えはないし、名前だって覚えちゃいなかったけど、今日はそんなこと、もうどうでも良かった。
僕は昼間っからホームで誰かのゲロを見たせいで、少し苛立っていたんだ。
僕がその年に関係を持った女性の話をしよう。
一人めの女性は、同じ大学に通う女性だった。仏文科の彼女はフランス女性のようにすらっとしていたし、(やはり、ともいうべきか)家には大量の野菜と果物があった。
もちろん、ミキサーもね。
僕がボクサーパンツ1枚で布団の中にいると、ミキサーでクラッシュする音が聞こえてきて、それで僕は目を覚ましたんだ。
あの鈍い音で、アパート中の人が飛び起きたんじゃないかってくらいの音だったよ。
彼女はベッドに野菜ジュースを2つ運んできた。でもなんだって、朝から野菜ジュースなんて飲まなきゃならいんだよ。僕は熱いコーヒーが飲みたいのに。
だから、僕は、それを飲み干すと急いでTシャツをかぶって、コットン地のパンツを履いて、彼女の家を出たんだ。
そして、近くにあった茂みに向かって、その野菜ジュースをすべてぶちまけてやった。口の中にこう、指を2本突っ込んでね。
前日に彼女と食べたセサミピザの残骸もいっしょに出てきた。僕はそれがなんだかおかしくて、しばらくそこでゲラゲラと笑っていた覚えがある。
いずれにしても、その仏文科の彼女の名前は覚えてないんだ。一生かかっても思い出せる気がしない。
2人めは、年上の女性だった。なにかの編集をしているって言っていた。たしか文芸誌の編集かなにかだって言っていた気がする。
彼女が雑誌を読むのは仕事だけで、それ以外の活字に触れる機会はすべて小説に当てられていた。
トゥーサンとかオースターとかそういった作家を知ったのは彼女がきっかけだったし、実際彼女はその本を僕にくれた。今でもその本は僕の本棚にある。
その本を開いて嗅いでみると(僕には本の匂いを嗅ぐ癖があるんだ)、たしかに彼女の吸っていたタバコの臭いがするんだ。たぶん、ショートホープだったと思う。
あの時期は彼女の影響で僕もタバコを吸っていた。そういう時期が誰にだってあるだろ?付き合ったり、好意を持っている相手に同化してしまいたくなる時期ってのがね。
3人めと4人めは同時にそれをした。「それ」ってつまり、「それ」のことだよ。今も僕はまだ「そこそこ」若い年齢だけれど、あんなことは後にも先にもきっと、あのときだけだと思うよ。
そのとき僕が、新宿の喫茶店でタバコを吸いながら、オースターの本(2番めの娘にもらった)を読んでいると、その娘たちが声をかけてきた。
僕は暇だったし、ちょうど小説の内容にも飽きてきていた頃だったから、いいよと言ってしばらく馬鹿な話をしたんだ。
片方は胸が大きくて、もう片方の娘はその片方の娘にそれを吸い取られちまったんじゃないかってくらいぺたんこだった。
ひとしきり、くだらない話をしたあと、「先週、弟が死んだの」と胸の大きな方が言った。
だから、ってどうして、こんな時間まで女の子ふたりが出歩いているんだろう?って僕は疑問に思ったけど、僕は聞かなかった。そういうことってあるだろ?
それから、僕らは、安い居酒屋に席を移して軽く飲んで、その勢いでホテルに行った。
そういう時期が、誰にだってあるだろ。理性より好奇心が強い時期ってのがね。誰だって通る路さ。
「あのあと、あなたのことずっと探したのよ」と5人めの女が僕の隣で言った。
バーはまだ空いていて、カウンターにいる僕ら二人の他には、角のソファーで男女が親密そうに耳打ちをしながら話をしているのと、一人がけの席で外国人の中年男性が新聞を読みながら、オンザロックを引っかけているくらいだった。
「僕もだよ」と僕は言った。「僕も探したんだ」
目の前のジン・トニックに浮かぶライムを指で沈めながら。
それから僕らは簡単な身の上話を広げた。そういう相手が彼女には(あるいは僕にも)必要だったのかもしれない。
彼女はおかわりを1度し、僕は2度した。そこから何かがまた始まる気配があるようにも思えたが、それは杞憂だった。
「実はね、あの年、私は5人の男と寝たの」と彼女が言った。彼女のグラスはもう空になっていた。
僕は帰ってから、オースターの本を手にとった。そして、久々にタバコを吸った。(おわり)
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